「女子」とは呼称ではなく、魂のあり方である

 日本で義務教育を受けた人ならみな、「女子」の対語が「男子」で、それが小中(高)では常識的に使われていることを知っています。

 私はいま大人と呼ばれてしかるべき、とっくに小中高を卒業した女性たちが自分たちをメタ認知的に「女子」と呼ぶとき、その深層にはあの頃の記憶や想い、そしてどこか自分たちが「男子」なるものの対角線上にいるとの意識があるのだと思います。彼らを対角線上に置いて、私たちは同じ仲間どうしで自分たちを「女子」と呼ぶのです。実際の年齢や、女っぽさ、あるいは「女っぽくなさ」なんか関係ありません。

 ここで私たちが名乗る「女子」とは、年齢や女度や外見や、何ら具体的な条件を指しているものではなかった。人間を「男子」「女子」の二項で語るとすれば、自分は選ぶならば「女子」側であるとの、ごく抽象的な魂のあり方の宣言だったのではないでしょうか。

「女子」が「こじれる」ということ

 今年3月、コラムニストの能町みね子さんと故・雨宮まみさんがSNS上で北条かやさんへ「女子をこじらせる」というフレーズの使用に関して公開で異議を申し立てるという、いわゆる「女子論壇」での大事件が起きました。

 雨宮さんが「幼い頃から自分が女として価値がないと信じ、そういう自分を愛せずにここまで来てしまった」とそれまでの自我の葛藤を経て必死の思いで生み出し、大切に扱ってきた「こじらせ」を、北条さんが無造作に著書のタイトルに使い、あまつさえそこに「面倒臭い女」のような、あまりにも単純化され紋切り型のイメージを付加しつつある、それは侮辱だ、というのが、能町さんサイドの深い怒りを湛えた主張でした。

 便宜上のカテゴリに過ぎなかった「女子」が、なぜそこまでの重い意味を背負ってしまったのでしょうか。世間の期待通り(とはいえ、世間とは誰なのか)の自分になれない、愛されない、女性である自分を好きになれないという、内側からのミソジニー(女性嫌悪)が蝕んでいったのは、なぜなのでしょうか。
 
 それは、女子であることをあまりにも強く深く意識し過ぎた、意識せざるを得なかったことの反作用だったのだと思います。

 人間は、誰もが愛を乞うものです。愛したいし、愛されたい。親からの愛でも、恋愛でも性愛でも、社会からの敬意や承認であっても、さまざまな愛が得られなかったとき、その理由を「自分が女子として魅力や価値がないから」なんて絶望的な回答に帰してしまうのは、もしかすると、歪んだ自己愛の一形態でもあったのかもしれません。

人間は誰でも、愛したいし、愛されたい(C)PIXTA
人間は誰でも、愛したいし、愛されたい(C)PIXTA

 だってそれは「可愛かったり綺麗だったり、大人や男にウケる外見さえ持ってさえいれば、女は受けいれられ愛される」という、人間の魅力を外見それ一点に、暴力的に集約する、寂しい人間観だからです。「人が愛される」とは、それだけではない。そうであってはいけないんです。

 そして、私たち女子は忘れてしまいがちですが、これは「女子」の対照に位置する「男子」という意識のありかたにも、往々にして起こるものです。