女子を掘り下げるなら、男子を掘り下げていく必要がある

 『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(杉田俊介・集英社新書)という本が、静かに売れています。

 自身を含めた男たちの「非モテ」をめぐるルサンチマンや男の中に巣食う男性(自己)嫌悪を掘り進め、
「非モテコンプレックスとは、性的な満足が男らしさだと信じてやまず、性的に満足していない自分は男らしくないとの劣等感に苛まれる、男らしさにふり回されるがゆえの軽微な性依存だ」
「自分の中の弱さや女々しさを認めてやろう」
「男を追い詰めてやまない『男らしさ』の呪縛から自分を解こう」

 と、まるで行間から筆者のすすり泣きが聞こえてくるような、命や性に懸命に祈りを捧げるような、すごい本です。

 そこで杉田さんが真摯に誠実に「自分(男性)を醜いと思う嫌悪感」「男らしさへの強迫的な固執」を掘り進めていけばいくほど、実は男性はいかに自分たちを語るボキャブラリーが貧しいかが明らかになっていくのです。

 それは、政治や経済や戦争や電車や飛行機やクルマや時計や、外側の事象は散々観察して議論もしてきたのに、自分たちを内省する経験があまりにもなかったからです。自分たちの中身は放っておいて、外側の肩書きや知識や持っているもののステイタスを競わせて、男たちの間で勝ち負けを決めてきたのです。

 自分たちを語るボキャブラリー、それはファッションを見るとわかります。女性には、自分たちを包むファッションがマスキュリンからフェミニンまで、どんなファッションも揃っています。「どんな女も『女』である」、ファッションがさまざまな女をあるがままに許してくれるのです。

 でも、男性ファッションの幅は、徐々に広がりつつはあっても、もともとがとても狭い。「男らしさ」「男の好む自己像」が固定していたのが原因です。ファッションの語彙力の低さは、つまり男が男を語る語彙力の低さを直接反映しているのです。