「国境なき医師団」は憧れの存在

 ただ、仕事は好きでも、働きながら勉強するという環境は大変でした。当時は20歳前後の若者ですから、やはり、高校時代の友達が華やかなOL生活を送っていて、きれいなスーツを着たり、車を買ったりして、アフター5や週末を楽しんでいる姿を見て、自分も遊びたい、勉強が面倒臭いという気持ちはありました。お休みは月3日ぐらいでしたし、夜遅くまで働いていたりしたので、OLの友達にアフター5に遊びに行こうと誘われても行けない。

 でも、「看護師になる」という大きな目標があったので、頑張れました。看護師になるには看護学校を卒業するだけでなく国家試験にも合格しなくてはならなかったので、必死で勉強しました。

「大きな目標に向かって頑張れました」
「大きな目標に向かって頑張れました」

 自分ではあまり覚えていないんですが、看護学校時代から「『国境なき医師団』に入りたい」と常々周囲に話していたようです。団体のことはずっと心にあって、憧れの存在だったんですね。

 初めて「国境なき医師団」の説明会に行ったのは25歳のとき。看護師として働き始めて3年が経ち、リーダー的な仕事を任されるようになった頃のことです。ちょうどその頃、1999年に「国境なき医師団」がノーベル平和賞を受賞して。「私の憧れている団体がすごく頑張っている」とうれしく思うと同時に、仕事の経験を積む中で、「私にもやれるかも」と思うようになっていたのです。

 ところが、説明会に行って現実を突き付けられました。

 アットホームな小さな部屋で、数人の志望者と共に現地活動のビデオを見せてもらいながら説明を受けたのですが、配られたアンケートに「英語がどのぐらいできるか」を記入するようになっていたんです。考えてみれば当たり前なのですが、海外で活動するには英語ができることが大前提。

 「できる」「まあまあできる」といった選択肢がある中、周囲の志望者はみんな「できる」に丸を付けている。「私、英語ができないのに来ちゃったんだ」と穴があったら入りたいぐらい恥ずかしかったことを覚えています。その場で初めて、「国境なき医師団」の仕事は情熱だけではできないということを知ったのです。

 そこからが戦いでした。

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 後編に続く ⇒ 日本人女性が「紛争地で看護師として働くこと」とは

聞き手・文/大塚千春 写真/稲垣純也