7年間、オーストラリア滞在で実績を積む

 私も海外の大学への留学を考えてはいたのですが、未知の世界で崖から飛び降りるぐらいの勇気がいることだと感じていました。でも、母の言葉のおかげで心が決まりました。留学資金を貯めるために給料のいい産婦人科に転職。仕事はハードでしたが、新しい知識を得ることもできました。

 そうして、29歳のときオーストラリアに旅立ちました。大学に入るために現地の語学学校で力を付けてから、オーストラリアン・カソリック大学の看護学部に入学。現地の看護師の免許を取ったのです。卒業後はメルボルンの大きな病院に勤務。チームリーダーを務めるまでになって、7年の滞在を経て帰国したのが2010年。36歳のときです。

 帰国後2、3週間して、「国境なき医師団」の面接を受けました。今回は受かる自信があり、すぐ派遣先も決定。帰国してから4カ月後には最初の任務地であるスリランカに飛びました。以来、シリアやイラクなど紛争地を中心に16回任務に赴いています。

「オーストラリア生活を終えて4カ月後にスリランカに飛びました」
「オーストラリア生活を終えて4カ月後にスリランカに飛びました」

 最初に行った紛争地は、2012年のイエメンのアデンです。病院へは空爆や銃で撃たれ傷ついた人たちが運ばれてきて、こんな世界があるのだと実感しました。私は手術室看護師として、手術室の現場を指揮する役割でしたが、日本やオーストラリアで経験してきた医療とは異なりますから、どうやって患者さんたちを収容するのか、どのように看護に当たるのか。現地のベテラン医師などの指導から、学んでいきました。

 自分にもいつ何があるか分からないような場所に行くことは怖くないか、紛争地で治療を続けることに戸惑いはないかということをよく聞かれます。ですが、運ばれてきた患者さんの治療に一刻も早く当たらなくてはいけない、戸惑う前に体を動かさなくてはならないという世界ですから、誰もそんなことを考える暇はありません。ひるむとか、心が折れるというような考えが入り込む隙間はないんです。私たちがやらなければ誰がやるのでしょう? 医療へのアクセスがなく、援助の人の足も遠のくような紛争地だからこそ、支援しなくてはならない。

 助けを求めて叫び続けている人がいる、そういう場所だからこそ、私たちが援助しなくてはならないと、強い思いが湧き上がるばかりです。

 紛争地に行くというより、私の中では「人道援助に行く」という感覚なんです。紛争地の人は、日常的に命が危機にさらされているのに医療へのアクセスが本当にない。一番、医療アクセスがない人の援助に行きたいと思ったら、紛争地がそうであったということなんですね。だから、怖いという感情が先に来ることはありません。