■大学生活の矢先、摂食障害に――痩せ細った娘に母が願った「普通の女の子として生きて」

 2003年の春。地元の愛知県を離れ、のちに長く現役時代を支えてくれることになる長久保裕コーチに師事するため、東北福祉大学へ入学を決めた明子さん。はじめて親元を離れ、コーチの下宿に居を移した。そんな新生活への期待と不安に胸を膨らませていたとき。

 もともとアスリートとして厳しい体重管理下にあったこと。親に守られていた環境から、急にひとりになって周囲の雑音に晒されたこともあったかもしれない。

 とにかくふとしたきっかけで食べものを嘔吐。以来、食べることができなくなってしまったのだ。

 わずか一ヶ月で体重は一気に8キロ減り、40キロに。競技休養はもちろん、入学したての大学も休んで、豊橋の実家へ戻り静養することを余儀なくされる。「しばらく実家で休めば回復するだろう」明子さん自身も、そしてコーチや母もそう信じて疑わなかった。しかし一向に回復する気配はなく、やがて160センチの身長に対し、35キロにまで落ち、文字どおり骨と皮だけの身体になってしまう。

 ついに32キロ、3ヶ月で16キロも体重が減少してしまった当時の様子を、鈴木明子さんは著書『笑顔が未来をつくる 私のスケート人生』(岩波書店)でこう述懐する。

 “薬で取る栄養分はすべて臓器に流れ込みます。その影響で、体脂肪のなくなった私の体には全身に白い産毛が生えてくるようになりました。まるで生まれたての「動物」そのものです。”

 筆者がかつて接した、精神病棟で思春期を過ごす少女たちを思い起こす。「生きていたくない」――そう背を向ける彼女たちの細く伸びる腕。幾重にも重なり刻まれた、細く生白い傷跡。大人たちの目の奥をまっすぐに見据える無垢な瞳。奥底には“生き延びる”力を有していた――彼女たちにとっては不本意だったとしても。生まれたての獣とどこか似通っていたかもしれない。

 見かねた母は、痩せ細った娘の肩をつかみ、こう訴える。

「スケートなんてやめていい。学校だってやめていいから。とにかく普通の女の子として生きてくれればそれでいいの」

 しかしそれはスケートのほかに自分の輝ける場所を知らない明子さんにとって、死刑宣告も同然だった。自分が自分らしくいられるただひとつの場所、氷上。それを奪われたら、私は生きていけない。母と娘ははじめて真正面からぶつかり合った。

「いま振り返れば、そう言ってくれた母は、母親として正しかったと思います。でも私はスケート以外の居場所を知らなかった。氷の上にすがりつくしか生きる道がなかったのです」