■「私、生きていてもいいんだ」~自分の存在を認めてくれた母の胸に飛び込む

 「少しずつ治療して病気を克服し、スケートに復帰したい。だから現状をわかってほしい」と訴え続けた明子さん。「母からすれば、自分の娘が“食べる”なんて人として当たり前のことができない病気になるわけがない、と受け入れ難かったはず。私に相対する母も、相当な覚悟だったことでしょう」と振り返る。

 長い月日をかけて向き合った末、母はこう口にした。「食べられるものから食べようね」

 「野菜だけじゃダメよ。お肉も食べなさい」が「食べられるものから食べようね」に変わったこの瞬間、明子さんは「私、生きていてもいいんだ」――そう思えたという。

 「どんな状態でも明子は明子だと受け入れてくれた。それまでは“明子”というより“母・けいこの娘”としての理想像を求められているように感じていました。母娘といえど、ひとりひとり違う人間なのだと、母が気付いてくれたのですね。明子には明子の人生があると」

 そこに至るまでには、並々ならぬ葛藤や壮絶なやりとりがあったことだろう。

「食べることすらまともにできない私なんて、生きる意味がない。まず私が自分自身を受け入れることができなかった。ましてや、自らも受容しきれない自分なんかを受け入れてくれる人などいるわけがないと思っていました」

 自らの存在価値を見失っていた明子さんにとって、母の言葉は「私自身よりも先に、私という存在を受け入れてくれる人がいた。こんな私を世界で一番に受け入れてくれた人、それが母だった」ことを意味した。それから徐々に明子さんの病状は回復へ向かっていく。

 “生きていてもいい”――存在を認めた母。その胸に飛び込んだ娘。

 「あと付けをすれば、母に受け入れてほしかったのだと言えるとは思います。でも当時はそこまで考えられなかった。そのときの私にとって、母は“自分の存在をはじめて肯定してくれた人”。スケートでしか自分を肯定できなかったから、それさえも失ってしまったときには本当に苦しかった」

 多くの人は生まれた瞬間からすでに当たり前のギフトとして授かっているであろう、親からの無条件の愛。それを十分に感じることができていたならば、もしかすると母娘がここまで戦い抜く必要はなかったのではないか。

 「多くの精神疾患の原因として言われていることなので、あとから思えば、私もそうだったのかもなとは思います。でも結婚して10年目に待ち望んで生まれた子どもで、幸せになってほしいという思いや、愛してくれていたからこその厳しさであったことは感じてます」



※後編では、なにが母をそうさせていたのか、またいまの母娘の関係はどうか、そして後輩・本郷理華選手の育成という“育てる”立場に立った鈴木明子さんの視点に迫り、そこに生きている母との体験に焦点を当ててお聞きします。

◆変更履歴:公開当初「愛知県出身の有力選手名」に誤りがありました。お詫びして訂正します。本文は修正済みです(2015年12月15日)