■母は店に立つこと、私はスケート。それぞれ“あたたかく人を照らす”ことができたら

 いまでは母の人間的な魅力をあらためて感じているという。

 何年、何十年も母の店に通い続ける常連さんたち。母の出す料理や酒ばかりではなく、彼女との会話を楽しみたくて通い続ける人たちが大勢いること。「こんな小さくて汚いお店なんかに、みなさんよくきてくださるものだねえ」などとはにかむが、間違いなく、母のあたたかさや魅力、人を惹きつける力があってこそのことだと、明子さんは感じている。

「母といい関係になることができて、人としてあらためて尊敬しました。だからこそ私は母のようには到底なれないという思いがありますし、またなりたいと望むこともありません。でも母はお店に立ってお客様に喜んでいただくこと、私はスケートでみなさんに応援していただくこと。かたちは違うけれど、もしかしたらおなじことをしているのかもしれませんね。母の血を受け継いでいるぶん、まわりの人を明るくあたたかく照らすことのできる人に、私もなれたらいいなとは思います」

 明子さんにも中高生のころには、まわりの友人たちも経験する程度の反抗期があった。成績が振るわないと「スケートなんてやめてしまいなさい!」とスケート靴を隠す母。それを探し出し、母に逆らってリンクへ滑りに行く娘。

 そのときは「母のことなんか絶対に超えてやる!」と憤ったものだったが、摂食障害を経て母も明子さんも、そして母娘の関係も変わり、「こんなに素晴らしい人のことは、一生かかっても超えられない」とかつての自分を恥じた。「自分が母親になったときに、こんな母親になれるだろうか。母親って一生超えられないものなんだな」と感じ入ったそうだ。

■「勉強しなさい」「いい成績を取りなさい」と言わぬ母の厳しさとは

 幼少期から「勉強しなさい」「いい成績を取りなさい」と口で言われることはなかったということは、前編でお聞きしたとおりだ。では母の厳しさとは具体的にどのようなところに表れていたのか。明子さんの幼少期、母の厳しさを象徴するエピソードがいくつか残されている。

 両親が営む割烹が休みの日曜。母は練習に付き添ってくれた。駅からリンクまで歩く道すがら「そんなにトロトロ歩いていては時間の無駄でしょう」。ぴしゃりと言い放つ母。ぴりりと背筋が伸びる。リンクに着いて身支度をしていれば「スケート靴ひとつ履くのに、なぜこんなに時間がかかるの? 時間がもったいないじゃない」

 筆者の想像の域を出ないが、フィギュアスケートでノービス時代からすでに頭角を現していた明子さんが、それほど歩みや動作の鈍い子どもだったとは考えにくいのではないだろうか。

 週に一度だけ、母が練習を見にきてくれる日。

 しかし明子さんにとって“普段仕事で忙しいお母さんに、練習の成果を披露できる楽しみな日”とはならなかった。日曜日がくるのが怖かった。

 それは高校生になれば、練習の行き帰りに寄り道することを許さず、練習が終わったら、母へ真っ先に電話をさせるというかたちに。まっすぐに帰れば何時の電車に乗れるから、帰宅時刻は――目の行き届かないところまで、厳格な規律を強いられた。