この授業は、慣れない環境に適応しようとする中で、本当にお互いが向き合うことができるのか試される空間でもある。
例えば、ある週のリーダーシップの授業で女性が「今まで発言をしている人のほとんどは白人か男性だ」と指摘した。その後、数秒、気まずい空気が流れた。私もそれに対してどう反応すればいいのか、分からなかった。
その発言の後に、アジア人女性である私が手を挙げたら、あたかもその意見に同感している、もしくはその意見に助けられて発言しているように見えるのではないか、抑圧されている人のように見られたくない…と、色々な考えが頭をよぎった。そうこう考えているうちに、その女性の発言はまるでなかったかのように、別の学生が別の話を始めた。
すると、話は別の話題へと進んでいった。彼女が指摘した人種や性別の差は非常にセンシティブな問題であり、しっかりと向き合うには勇気と覚悟が必要だ。だからこそ、クラス全体として話題を避ける方向へと進んだのだろう。彼女の発言に向き合わなかったことは、今後のクラスの環境や雰囲気にどういう影響を及ぼすか、もしくは及ぼさないのか、まだ分からない。
権威を持つ人がいない中、組織はどう動くのか
噂には聞いていたものの、実際にこのリーダーシップの授業を受けて、その目的が少し見えてきた気がする。
学生に主導権が委ねられた慣れない空間で、一人一人の個人がどう適応して、クラスとして前進できるか。「権威」を持つ人がいない中、リーダーシップとは単なる役職やポジション、あるいは指導者の手腕ではなく、それぞれの人が発揮するものなのだと感じる。
このような気付きや考察を繰り返すことによって、リーダーシップについて学ぶ授業なのだ。あらゆる分野の学生が履修するためにこぞって集まるゆえんが分かったような気がした。
文/大倉瑶子 写真/PIXTA