良いことがあったときこそ、「おかげ」の対象を振り返ろう

 当時はPさんのメールにとても傷つきました。なぜ嫌われたのか、ひどい言葉をかけられたかがわからず、仲のいい友人に泣きながら愚痴を聞いてもらったりもしました。「言葉は毛布にもナイフにもなるんだ。私はPさんにナイフで傷つけられた。ひどい。私はPさんみたいにはならないようにしよう。Pさんなんか大嫌い」とさえ思いましたが、もとはと言えば、Pさんから頂いたご縁や恩を忘れた失礼な行動を繰り返していたのは私かもしれません。

 無礼が積み重なった結果としての爆発だったとすると、Pさんからしてみたら、もしかしたら、私のほうがPさんを知らず知らずに言葉のナイフで刺していたのかもしれない、と思い至るようになったのです。

 この出来事をきっかけに、良いことがあったときは必ず「あのとき、この場所で、誰に助けてもらって、こんなことがあったから、私の今がある」ということを具体的に振り返る時間を意図的につくるよう心がけるようになりました。

 そこで振り返る時に使っている言葉が「もとはと言えば」です。今自分がこういう環境にあるのは、もとはと言えば誰のおかげだろうか、という視点で振り返ると、自然に「おかげ」の対象が何人も思い出されます。感謝の言葉しかなく、どこに足を向けて寝たら良いか分からない気持ちになります。何なら立って寝るしかないという心境になり、ありがたくて仕方がなくなるのです。

 もともと物事がうまくいくと調子に乗りやすい私にとって、こうして「もとはと言えば」で振り返ることは、自分を戒める習慣となりました。