農家を営む祖父と過ごした日々

 松嶋の出身は九州・福岡。子供の頃は「やんちゃ坊主」だったという。

 「基本的にメチャクチャ、やんちゃだったんですよ。もう本当に『悪がき』の代名詞と言っていいぐらいだったんではないでしょうか。小学生の時はケンカに夢中でした。理由は分からないですけど、ケンカばっかりしていたんです。すぐに手が出ちゃうんです。父さんの方の実家の従兄弟たちが4、5人いて、本当に『ビー・バップ・ハイスクール』の代名詞みたいな人たちで、全員不良だったんです(笑)。

 だから遊びに実家とかにいくと、その従兄弟たちに拳(こぶし)の握り方とかを徹底的に教えられていました。ケンカの仕方の基本講座みたいでしたね。そんな中で鍛えられていたという感じです。

 だから、高校生とかとケンカをしていました、小学校5年、6年の分際で。体格や体力では負けても、気力だけは負けていなかったと思います」

* ビー・バップ・ハイスクールは、1983年から2003年まで「週刊ヤングマガジン」で連載されていた、きうちかずひろによる漫画。映画化もされるほど中高生を筆頭に人気を博した不良高校生の物語。

 2男1女の真ん中。兄と妹に挟まれた次男坊。従兄弟たちから影響で、負けん気の強い不良小学生になっていた。

小学生時代の運動会の一コマ(中央左が松嶋)
小学生時代の運動会の一コマ(中央左が松嶋)

 そんなけんかっ早い松嶋を可愛がり、大切に育ててくれた恩人がいる。福岡・大宰府に住む祖父、貞士だ。

 貞士は、農家を営んでいた。松嶋が貞士の家に顔を出すたびに、貞士は農作業の手伝いをさせ、松嶋に小遣いをやった。小学生らしい話だが、小遣い欲しさに祖父のもとに足繁く通いはじめる。それが、松嶋の料理人としての出発点だった。

 「ほかの子供たちと違い、月に定額の小遣いをもらっていなかったんです。だから母に『小遣い、ちょうだい』と言って断られていた時は、すぐに実家のおじいさんの家に行って、『じいちゃん、小遣いちょうだい』って言っていました。

 おじいさんに『じゃあ薪(まき)、割っておけ』と言われると。風呂用の薪を割り。『鍬を持って、畑を耕せ。ニンジンとかいっぱいあるから、全部収穫してこい』と言われると、畑で収穫していました。

 最初は、ただの小遣い稼ぎのためにやっていたんです。そんな僕をみて、母は『あんたは賢かね』って、半ばあきれていましたが、今考えるとおじいさんは働いてお金にすることを学ばせくれていました」

 貞士の農作業を手伝いながら、当時の松嶋が自覚できていたかどうかはさておき、今にも至る料理の原材料に対する観察眼が養われていた。

 「畑の中にイチゴがあったりとかトマトがあったり、キンカンがあったりとか、いろいろなものがあるので、そういうのは普通に『うめえなー』って言いながら食べていました。11月になるとお米を収穫して、12月に入ると御餅を作って、餅になる途中の段階で、大根おろしとしょうゆをかけて食べたりしてました。

 おまけに、昔の名残りで少しだけ養鶏場があって、昔はそこに鶏が3000羽ぐらいいたんです。だから『よし、鶏、食うぞ!』となったら、絞めて、首を切って、茹でて、毛をむしって、内臓とかはレバ刺しにして。それがもう当たり前のことでした。

 どこに何が咲いているかとか、何が生息しているかとか、どこの貯蔵庫に行けば漬物があるかとか、全部分かっていました。そういう生活が、料理人になるきっかけになったのは一番大きいと思います」

 祖父・貞士は、いつも松嶋に「農業をやれ、儲かるぞ」と言い続けていたという。食材を生産することの大切さや、自らの手による生産物でお金を稼ぐことの面白さを、祖父なりの表現で伝え続けていたのではないか。

 貞士は、2001年にこの世を去る。その少し前、すでに異国の地フランスで、料理人になるために孤軍奮闘をしている孫の松嶋に向け手紙を書いている。

【敬介に贈る。
山の中よりころげ出た雑の実が
今にみていろ僕だって、
見上げるほどの大木になって見せずにおくものか
何十年かたった后、あの椎の木か樫の木か、
君もみあげるほどの大木になってくれ
ヂイより】

 「啓介が敬介になっているところが、おじいさんらしい」、と松嶋は笑顔で回想する。

 松嶋が自身のレストランをニースにオープンさせるのは、その翌年のことだ。