フランスのレストランで武者修行

 「フランスはコネ社会だから」

 そう聞かされていた松嶋は、自分でそのネットワークをつくることを強く心に決めていた。

 当時、フランスに毎年行っているという常連のお客さんと仲良くなっていた。

 「下調べせずにとりあえず、『一緒に行きましょう』と言ってご一緒させてもらったんです。それでブルゴーニュのボーヌへ。そこで美味しいと紹介されたお店に履歴書を持っていきました。

 すると、『今いる日本人スタッフが3月で辞める。人手が足らなくなるので4月からうちで働いていいよ』と言われたんです。幸か不幸か、1軒目のアタックで決まっちゃったんです」

 今ならネットなどを活用すれば簡単に情報が入る。だが当時はそんな時代ではない。松嶋はフランスに渡る前に、業界の中で知り合った先輩たちから話を聞き、先人たちの修業の話が記載されている雑誌のページを切り抜き、雇ってくれそうな店のリストを自作していた。

 「ある店に入るためには、その前にどの店で修業していたということが重要だったり、シェフ同士のつながりなどを調べてまとめていました。自分でレストラン同士のネットワークを分析していたんです」

 また、ヴァンセーヌで働いていた頃、「料理は文化だ。言葉ができなければ学ぶことができない」ということを聞いていた。そのため誰に言うこともなくフランス語を学んでいた。

 「日本では、忙しいキッチンで『肉、焼いとけ』とか、『魚、おろしとけ』とか、先輩がぶっきらぼうで、単語しかしゃべらなかったんです。だから、『フランスでも一緒だろう。主語・述語を並べれば良いんだろう』と。

 取りあえず単語の勉強だけはしておこう、単語さえ聞き取れれば何とかなる。そう思って、NHKのフランス語講座を視聴していました。

 でもやはり本場フランスでは、とにかく言葉をしゃべれないと全ての効率が悪くなる。なのでフランスに渡ってからはとにかく一生懸命、勉強しましたよ(笑)。

 朝6時に起きて、9時までまず勉強。9時になったらレストランに下りて(筆者注:当時松嶋は店の上階に寝泊まりしていた)、仕込みをして、ランチ営業前にまかないを食べたらまた部屋に戻って『さっき、シェフは何と言っていたんだろう』と本でチェックをして。それで昼の営業をして、また3時から6時まで勉強です。

 時間になったらキッチンに行って6時から深夜までディナー営業をして、寝る前にまた1時間ぐらい勉強する。そういうサイクルにしていたんです。

 そうしたら、1カ月ぐらいで少しは話せるようになってきました」

 目標を決めたら、計画を立案し、それに従ってステップを踏んでいく。高校時代にサッカー部に所属していた松嶋は、その後サッカー界の頂点に立つ選手たちと共に練習し、その考え方に触れていた(前回を参照)。サッカー部で学んだことが、ここフランスでの料理修業で活かされた格好だ。

 「いつも、『簡素化』という言葉が頭の中にありました。『これは無駄だ』と人から言われたことでも、まず自分でやってみる。それでも無駄だなと思うものはやらない。全てにおいて、そう意識的にやっていました」

 松嶋は修業時代の約5年間で、12カ所ものレストランを巡った。一般的に修行というと1個所でじっくり学ぶというスタイルを思い浮かべそうだが、それとは対極的だ。

 これも松嶋らしい考え方に基づいた結果である。

 「フランスでも一般的に、1つのレストランで最低1年半とか働いたりしますが、1軒目の修業は、1カ月ほどだったと思います。

 ただ、フランスには『セゾニエ』と呼ばれる、季節労働的な働き方があります。その土地が忙しくなる旬のときだけ、その土地に行って、寮などで住み込みで働くんです。冬はスキー場で働いて、夏はコート・ダジュールで働くといった人も結構たくさんいます。

 そのような土壌があるから、お店側も『この時期しか働かなくて結構です』という契約になったりするんです。そういうのが自分には合っていたんだと思います。

 僕みたいな出所のよく分からない外国人を雇うわけですから、店側にもリスクがある。一方で自分は『これだけは学びたい。だからこそこの店で働くんだ』『あそこで働いていたという証明が得られたら、次にあの店に入りやすくなる』とか考えている。お互いにウィン・ウィン、とも言うべきバランスがありました。お金をもらわないような条件の時もありましたけど(笑)」

 そうしながら松嶋は、フランス人の思考になりきることを心がけていた。

フランス修業時代の一コマ
フランス修業時代の一コマ

 「フランス人と同じ感性でいないと、フランスでは生きていけないと思っていました。日本人としてこの国にいるんだったら、嫌なことばっかりです(笑)。

 フランス人のつもりで物事を考えて、フランス人のつもりでメニューも考え、『お客さんはどういう人が来てくれるのだろう?』『何を求めているのだろう?』と、この国の人の気持ちに、自分を置き換えるようにしていました。

 それは今も同じです」